其の一
どうも生まれつきそそっかしいたちの様で、よくワスレモノをする。出かけるのに定期を忘れる、財布を忘れる、携帯電話を忘れる、といったことはしょっちゅうである。おまけに最近は年の所為か、人の名前を忘れて、なかなか思い出せない。しかし、この程度のワスレモノは実害が少ないので、まあ許せる。困るのは、心臓にショックを与えるワスレモノである。 あるとき、どういうわけか、楽器の入ったケースだけを持って(中身は名器ヘインズ)、梅田の地下のハンコ屋によって、ハンコを注文した。注文書に必要事項を記入、やれやれこれで気になっていた事が一つ片付いたと、ほっとしていた。そして阪急電車の駅に向かって歩き出した。何かが変なのだ。と、手に何も持っていないのに気が付いた。楽器を持っていない。どっと冷や汗が吹き出した。あのハンコ屋だ。それから全力疾走。あった。ショウケースの上に、ハンコ屋の展示品と一緒に、まるで展示品の一部のようにフルートのケースが、一緒に並んでいる。ボクの安堵の気持ちは、書かなくても察してもらえるだろう。
其の二
その日は忘れもしない神戸のポートアイランドでのコンサートだった。楽屋に入って一息ついた後、さて、音出ししようかなと、鞄からフルートのケースを取り出して、蓋を開けた。心臓にショックを与えてしまった。ケースが空なのだ。昨日家で練習して、楽器をスタンドに立てたまま、ケースだけを持って来てしまったのだ。中身が入っているかいないか、分かりそうなものだと思うでしょうが、これが、無意識だと、意外に分からないものなのです。あわてて家に電話して、持って来てもらうことにしたが、ゲネプロ(ゲネラル・プローベの略、ドイツ語で、総練習の意味。通常はコンサート会場の舞台で行われる)には間に合わない。フルートのメンバーが来たら、事情を話して楽器を貸してもらうことにしよう。よほどの理由がなければ決してしてはいけないことだけれど。なんとか段取りはついたが、心臓にはショックを与えるし、オケのメンバーには笑われるし、とんだ一日でした。
其の三
古道具屋で買い求めた、牛革の鞄を持って、近鉄八尾駅をおりて、八尾市民会館、プリズムホールへ向かった。後ろから僕を呼ぶ声が聞こえた。仲間の女性フルーティストのOさんの声だ。振り向くと、同じフルートのT大兄も一緒だ。T大兄「良い鞄持ってるね。でも重くない?」「それが見かけによらずそうでもないんですよ。ちょっと持ってみますか。これでも、フルートとピッコロと燕尾(ステージ服)が入っているんですよ」「ほんとだ。思ったより軽いんだね」というやり取りの後、楽屋に入った僕は、鞄から楽器と燕尾を取り出そうとして、ドキッとした。ピッコロのケースの手触りがないのだ。思ったより軽いはずだ、ピッコロが入ってないんだもの。今日の乗り番は最初のシューマンの歌劇「魔弾の射手 序曲」これはフルートだけなので、大丈夫だけど、問題はプログラムの最後、ベートーベンの交響曲第5番「運命」のピッコロだ。早めに楽屋入りしたので、ゲネプロがプロ順なら少しは時間がある。慌てて知っている楽器店に電話をすることにした。何とか頼み込んで、ピッコロをホールまで持って来てくれることになった。感謝感激である。それから約40分、店員さんがホールに届けてくれた。ゲネプロにも間に合った。本当に有り難い。 その日、ステージで、シンフォニーの演奏の後、フルートの1番を吹いていたE君が、ニヤリとイタズラっぽく笑いながら、「荒井さん、他人の楽器で稼ぐのはやめて下さいよ。」
其の四
その日は中之島のフェスティバルホールで、音教(主として中学生、高校生のためのオーケストラ鑑賞教室。オーケストラで使われている楽器の紹介や、有名な曲を鑑賞してもらう。)の演奏会で、2回本番だ。さてぼちぼち時間だと舞台袖にいくと、なんだか様子がおかしい。そばにいる人に何があったのか尋ねると、コンマス(コンサートマスター)のUさんが、楽屋でケースをあけたら、楽器が入ってなかったんだって。ステマネ(ステージマネージャー)が、練習所のピアノの上にバイオリンが乗っているのをみて、誰だろうと思ったっていうのよ。どうも昨日練習所で練習して忘れたらしいわ。それを聞いて、僕にも覚えがあるので、聞きながら苦笑い。それで1回目の本番は、エキストラの人の楽器を借りて弾くことになったとのこと。その間に輸送の人が、練習所へ楽器を取りに行くことで、一件落着。エキストラの人は、袖で待機。楽器だけがエキストラを勤めたという、珍しい話でした。
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